2020/05/15
祖母が亡くなりました
私の母方のおばあちゃんは大正7年生まれ。102歳でした。
私は会えなかったのですが、眠るような最後だったようです。
子供の頃”おばあちゃんち”へ行くのが大好きでした。
学校の長い休みの時だけ数日行ったのですが、おばあちゃんちの持つ独特の雰囲気と匂いを、今でも鮮明に思い出せます。
岡山の田舎にあったおばあちゃんち。古い木造の2階建て。
おじいちゃんは私が生まれた時にはもういなくて、おばあちゃんちにはおばあちゃんと、叔父さんが住んでいました。
玄関まで続く踏み石を渡って「おばあちゃん、きたよー!」と引き戸を開けると、おばあちゃんが嬉しそうに廊下をこっちにやって来て「よぉ来たなぁ」と笑ってくれる。
おばあちゃんが嬉しそうなのが、嬉しかったな。子ども心に。
おばあちゃんちはトイレが汲み取り式で、子供の頃はかなり怖かった。
トイレットペーパーなんかなくて、隅にちり紙が積んであって、それもおばあちゃんちならでは。
お風呂も真っ黒な釜の形をしていて、明かりはオレンジ色の裸電球ひとつでぼんやりと薄暗くて怖かった。
リビング替わりの続きの和室二間には、大きな仏壇、ボンボン時計、壁に飾られたご先祖の写真。
応接間だけは洋室で、少し埃っぽいそこには古いソファセットとピアノと弦が切れたギター、百科事典が詰まった本棚が置いてあった。
外には灯篭の立つ庭と古い物が色々ある納屋があって、埃っぽくて、少し臭くて、よく吠える犬がいた。
私は、おばあちゃんちがすごく好きだった。
寝る時の布団が重くて匂いがよそよそしくて、ボンボン時計の音が気になって眠れなかったりしたけど、そこにはいつも、”何か面白い物があるかもしれない”というなんとも言えないワクワク感があった。
記憶の中のおばあちゃんはもうしっかりおばあちゃん。
あまりしわのない、小柄だけどとてもパワフルな人で、早くに母親を亡くしたいとこたちのお母さん代わりになっていた。
お腹が丈夫で何でも食べる。
いつでもせっせと働いていて、私がうんと小さい頃は古い乳母車に私と弟といとこたちの4人を乗せて畑まで連れて行ってくれた。
ギシギシ音を立てて揺れるあれ、楽しかったなぁ……
あの頃でも50代後半?
今の私よりもずっと年上だったんだから、すごい!と思う。
自分の子育てが終わった後、もうリタイアが近い年から孫を育てあげたのに、記憶の中のおばあちゃんは疲れた様子がひとつもない。
ほんとにすごい。
おばあちゃんがこの世からいなくなってしまったという実感は、まだ全然ない。
もう随分会ってなかったから、当たり前かもしれない。
数年前、最後に会った時、おばあちゃんは私のことが誰だか分からなくなっていて、仕方がないという思いと、なんとも言えない寂しさとが胸に渦巻いた。
どうしようもない時の流れを感じた。
「あんたぁ、どちらさんじゃったかや?」
申し訳なさそうなおばあちゃんを見て、確かに交わっていた時もあった自分とおばあちゃんの線が完全に離れているのを感じた。
それと同時に、バトンが確実に渡されているのも感じた。
いつまでもおばあちゃんと孫、であることは変わらないけど、私はこれからあの頃のおばあちゃんにどんどん近づいていって、やがては孫を迎える年になるんだ。
みゆきや
おばあちゃんが私を呼ぶ声は、まだ耳に残ってる。
怒られたこともあるはずなのに、思い出すのは目尻に皺をつくって笑っている顔ばかりだ。
おばあちゃんの最後が、苦しくなくて良かった。
おばあちゃん、お疲れさま。
またね。
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みゆ